画家として、公募団体のトップとして
中谷先生は1942年千葉県生まれ。大学(理系)を卒業後は、設計技師として図面に向かう仕事をする傍ら、29歳(71年)の時に、地元・千葉県の習美会に入会(金子東日和先生の父、定雄先生が主宰されていました)して画布にも向かわれていました。
翌年からは新構造社へも出品をし、30年近くも二足のわらじを履きながら、画業に励まれていらっしゃいました。その間、84年に浅井忠記念展に入選、86年に安井賞(美術界の芥川賞)入選し、翌年、一枚の繪主催・第16回現代洋画精鋭選抜展で金賞を受賞するまでに評価を高めていきました。中谷作品といえば、山容や海景などの風景をモチーフに、色面で構成された表現がキャンバスに彩られていますが、この精鋭選抜展の金賞によって、中谷作品がより多くの美術ファンに知られることになりました。色面構成による作品を描くことについて中谷先生は「私の絵は、実景を取材しての風景画ですが、色面で構成することで造形的、創作的な面白さも追求しながら、見る人に心地良い絵ということ大事に考えています」(「一枚の繪」2017年9月号より)と、おっしゃっています。目の前に広がる光景そのものを描きもしますし、中谷先生のように造形的に絵画ならではの風景表現もあるのだということを見せてくれました。
その後、新構造社では2009年に内閣総理大臣賞を受賞。15年からは新構造社理事長に就任し(現在3期め)、大規模公募団体の長として美術界を牽引しています(習美会でもトップの会長に就任されています)。
自身の作品を制作することだけでなく、団体展や地元の公募展などの運営にも携わる、八面六臂、仕事をこなしていた日々から突然の活動休止。やるせないことこの上ないお心持ちなのでしょう。
外出自粛期間中の制作状況をおうかがいすると、
「自室に置いてある、長年に渉るスケッチ旅行の膨大な資料を整理すべくアトリエに入る。
重ねてあるガラス絵の下絵を数枚引き出し制作に入るが、なかなか進まない。どうも〆切りがないとダメなようである。
中途半端な作品が、またぞろ増えた」
と、これまでのリズムと異なる日常にあえでいるかのようです。
「〆切」のある「一枚の繪」の誌上では、これまでと変わらぬ作品を発表されていますが、取材にも出られず、展覧会会場で多くの方に観てもらうような大作を描く風景画家にとっては、ピンと張った糸が緩んだような日々なのかもしれません。
「書棚から出てきた、古いギター教本をみて、数十年ぶりに弾いてみた。昔、カラオケもまだ無い頃、スケッチの旅の夜は画評会の後にギター一本でよく盛上がった。その頃の懐メロやアリス、(吉田)拓郎に再びチャレンジしてみたが、基本のコードさえ、よく押えられない。全くダメである。50年来の画友に時々ギターも聴かせてもらっている。私も今はダメだがその分先が楽しみである」
木村荘八が鳥海青児(『ノートルダム』などを描いた)をモデルに描いた『ギターを弾く男』という作品が、ふと思い起こされました。鳥海青児は厚塗りの独特の画肌で風景などを描いていて、戦前、洋行に旅立った時にギターを持参していたそうです。風景画家と音楽(ギター)は、何かしら親和性があるのかもしれません。
旅に出られないながらも、つまびかれたギターの音に呼び起こされて、これまでに描いてきた取材スケッチから温故知新、中谷先生の心の内に、新たな画想が湧き上がってきたのではないかと想像してしまいます。
芸術文化を守り、発展させる意識を強く持つこと
「時代の入り口で災害列島と化し、いまだ元の生活の目処が立たず奮闘している中、この世の中の有様を如何になし、果すべきか、私達創作者に今、何が出来るか。それは芸術文化を守り、発展させる意識を強く持つことだと思う。
今、新型コロナ禍を奇貨として本質的に改革する千載一遇の時でもある。
コロナに関しては、感染防止と経済活動をどう両立させていくか、政府や行政が押しつける『自粛』ではなく、自らが身につけた『自律』ある行動をとることが肝要であると思われる」
画家としても、公募団体の長としても、時代の岐路の先頭に立っている中谷先生でないと言えないことではないでしょうか。「芸術文化を守り、発展させる」のは、このコロナ禍の日常では八方塞がりな印象を禁じ得ないのですが、それでも、画家は作品を描き、発表し続けなければならないという覚悟をおっしゃっているのではないかと思います(コロナ禍が「変革する千載一遇の時でもある」とおっしゃったことはすごい!)。
なかなか発表の場が限られる現在ですが、中谷先生の近作は「一枚の繪」誌上でご覧いただくことができます。最新10・11月号にも新作が掲載され、次号12・1月号にも掲載を予定しております。「見る人に心地良い絵」を、中谷先生はこれからも私たちに見せてくれることでしょう。 |